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かもめのジョナサン

傍らの何かを通したエッセイを。

クレープを二度食えば

たいてい、過去に戻ることを誰しも一度は望んだことがあると思う。
タイムトラベルはフィクションのテーマとしてもベタであり、ウェルズの小説や改造したデロリアン、或いは青色の猫型ロボットのひみつ道具、近年では運命石の扉を連想するだろうか。ここで挙げたのは氷山の一角であり、何よりウェルズ自身もしばしば作品にタイムマシンを登場させている。SFという大きな枠組みの中でオーソドックスなジャンルとしての立ち位置を確立している。


けれども、ぼくはあまり過去に未練を持っていないので現在を変えるために戻りたいとは思わない。今や棄民に等しい生活を送っているにも関わらずである。況してや働いていた頃と限定されたならば目の前に束になったお金を積まれても戻りたくはない。
強いて挙げるのであれば、この暗澹たる人生の幕開けとなった高校生の頃に戻りたいと思う。あの高校の無価値さを痛感して、早々に高校を辞めてしまうことには変わらないだろうけど、さしたる問題じゃない。
しかしながら、放課後、西日が差し込む図書室で阿呆な事を延々と話したり、校則では禁止されていたゲーセンへと一緒に連れ立っていた女の子に素直に気持ちを伝えていたらどう分岐していたのかは僅かばかり気になる。


彼女は黒髪の乙女であったが、ずいぶんな狂人であった。クラスの中では、あらあらうふふとでも言わんばかりのふわふわとしたべびいかすていらのような空気を醸し出してはいたが、その臓腑は底から腐っていた。未だに慕情を捨てきれないぼくがいうので間違いない。
部活が切っ掛けで仲良くなったのにも関わらず、同時期に揃って顧問と部員に中指を立てて遁走した。それを境に悪友としての盃をリプトンのミルクティーで交わした。味を占めたのか、それからは学校にミルクティーを買っていけば彼女がいつの間にか飲み挙げてしまう。週刊少年ジャンプを読むと言い張るのでそれまでは帰りがけに買っていたのだが、月曜の朝は行きがけにコンビニに寄って買うことが日課になった。体育祭のフォークダンスでは他の男と手を繋ぐことを拒んでいたと思いきや、ぼくのターンになると嬉々として手の甲に深々と爪を立てられたのも覚えている。

こうして文章にしてしまえば碌でもない記憶ばかりだけれども、実際には退屈でしかない学校生活は彼女がいたから辛うじて成り立っていたように思う。こうした表情を向けるのが自分だけだと分かっていたのもあるのだろう。


ぼくが高校を辞めてからも連絡は取っていたが、それもいつの間にか途切れてしまった。共通の知人が居るので、もしお互いにその気になって、会おうと思えば会うことは出来るかもしれないが、今さらそうしようとは思わない。
あの九年前に一歩踏み出すことが出来なかったからこそ、クレープが好きだった彼女のリリカルな記憶が今にあるのだと思う。

 

そのせいで、以降の恋愛にも(ずいぶんな)支障があったのだけども、その原因はぼくの心の持ちようである。

 

 

クレープを二度食えば(リュウコミックス)

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夜は短し歩けよ乙女

まもなく桜が咲く頃である。


全国津々浦々、中には京都の大学に進学を決め、森見登美彦氏の作品のような煌びやかな大学生活を期待している方々も在るだろうが、氏の主人公から学力と物語性を剥奪したような人間だと道すがらに他人から詰られる私から言わせてもらうとそんなものはない。大学生活というのは常に打算が渦巻く末法の世である。四回生にして、第二外国語を新入生に混じって学んでいたという真面目極まりない私が言うのから間違いない。


語弊がないように言っておくと私は森見登美彦作品、もしくは黒髪の乙女に憧れて京都に進学したわけではない。出来れば、という可能性を求めてはいたが実際に出くわしたのはカメレオンのように頻繁に髪の色が変わるモルモットのような容貌の乙女であった。このへんちくりんな女子は何故かへんちくりんな俺を気に入ったのか仲良くなり、近所の居酒屋で互いに吐くほど飲むことを繰り返しておった。よって、お互いに春期取得単位はアンダースローでリリースされた。
信号機さながらに髪の色が変わる、時代によっては妖怪と揶揄されても仕方なしと呼べる見た目の彼女は、夜の蝶のような容姿と裏腹に読書をする習慣を持っていた。そして彼女こそ森見登美彦作品に憧れて京都の大学生活を決めた人種だった。人は見かけによらぬものである。

ある日、互いに講義を受けるつもりなどさらさらなかったがために四条河原町へと繰り出し、小洒落た喫茶店で取り留めのない話を続けたり、雨上がりの先斗町の石畳を滑ったりしてからはもくもくと立ち込める煙で前が見えない焼鳥屋でひたすらにぼんじりを食べていた。


「ぼんじり、ぼんじり、ぼんじり」
呪文のように店主に伝える彼女は滑稽でしかなかった。
この日学んだのは、京都に黒髪の乙女は居ないが、変な女は居るということである。この日の出来事がきっかけで彼女とは同じ部活に入ることになった。

 

ある機を境にぼくが部活を辞めてからは、彼女とは徐々に疎遠になってしまった。互いに彼氏や彼女を作ったり、就職や離職をしたりと状況がそうさせているのもあったのかもしれないが、大抵の原因はあいつのドタキャンである。
九州に帰る前に一度、あいさつをしておきたかったが、やはり彼女は現れなかった。
けれどもいつかふらりと街中で会うような気がしている。そのときはおともだちパンチをして、偽電気ブランを呑むことでチャラにしようと思う。

 

 

夜は短し歩けよ乙女 (角川文庫)

夜は短し歩けよ乙女 (角川文庫)

 

 

 

青少年のための自殺学入門

体調のバロメーターをどのようにして測るかは各々だと思うが、ぼくの場合は食欲が忽然と消える。脳の電気信号は大火の如く、空腹だと警鐘を鳴らし続けるのだが、悲しいほどに喉を通らない。代わりに雑に酒を呑むようになってしまう。カロリーだけはある。

しかし、悲しいかな、金銭的にゆとりがないので野口二枚のジャックダニエルすら買うのを躊躇してしまう。結果として、発泡酒を流し込み、つまみも炙ったイカではなく、銀色のシートに並んだ錠剤である。子どもの頃であれば、その中は極彩色の着色料で塗りたくられたチョコレートなのだが今は苦い白い薬である。リストカットとは異なる見えない自傷行為をやめられずにいるのである。現実逃避をするのには身体を痛めつけなければならない寸法である。救われないと分かった瞬間、人間は自棄になるのだと常々実感した。周りは見て見ぬ振りをしているのか分かっていないのかはさておき、今しがた、ぼくは生と死のボーダーラインの上にいるのである。

こんな精神的に危ういぼくが飛び降りるのを差し押さえてるのは寺山修司の思想なのだと思う。家族も含め周りの人は夢想家であり、もし死を選んだのであればおよそ体裁ばかりを気にするだろう。悲しんでくれるのは幼馴染みだけだろうか。

彼には以前、彼にこう話したことがある社会的に窮困して自殺をしたのであればそれは社会による他殺ではないかと。全くの受け売りであるが、彼は成る程と素直に納得をしていてくれた。この本で述べられていた何かが足りないために死ぬのは全て他殺という言葉はまさしくそれなのだと思う。

 

ぼくは遅かれ早かれ、最終的には自ら命を絶つことになるだろう。これは実際に関わってきた人々による人と社会が、ゆっくりと、一突きずつ、或いは複数回刺し抜いた大規模なオリエント急行殺人事件である。

死後も彼らにその自覚が生まれることはないだろうし、すぐさま塵芥としてなかったことになってしまうだろう。

 

「じぶんを殺すことは、おおかれすくなかれ、たにんをきずつけたり、ときには殺すことになる。そのため、たにんをまきこまずには自殺もできない時代になってしまったことを、かんがえながら、しみじみとえんぴつをながめている。」

この書籍の後書きにはこう綴られていた。けれども、もうそうした時代は終わってしまったのだろう。

 

 

青少年のための自殺学入門 (河出文庫)

青少年のための自殺学入門 (河出文庫)