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かもめのジョナサン

傍らの何かを通したエッセイを。

夜は短し歩けよ乙女

小説 エッセイ

まもなく桜が咲く頃である。


全国津々浦々、中には京都の大学に進学を決め、森見登美彦氏の作品のような煌びやかな大学生活を期待している方々も在るだろうが、氏の主人公から学力と物語性を剥奪したような人間だと道すがらに他人から詰られる私から言わせてもらうとそんなものはない。大学生活というのは常に打算が渦巻く末法の世である。四回生にして、第二外国語を新入生に混じって学んでいたという真面目極まりない私が言うのから間違いない。


語弊がないように言っておくと私は森見登美彦作品、もしくは黒髪の乙女に憧れて京都に進学したわけではない。出来れば、という可能性を求めてはいたが実際に出くわしたのはカメレオンのように頻繁に髪の色が変わるモルモットのような容貌の乙女であった。このへんちくりんな女子は何故かへんちくりんな俺を気に入ったのか仲良くなり、近所の居酒屋で互いに吐くほど飲むことを繰り返しておった。よって、お互いに春期取得単位はアンダースローでリリースされた。
信号機さながらに髪の色が変わる、時代によっては妖怪と揶揄されても仕方なしと呼べる見た目の彼女は、夜の蝶のような容姿と裏腹に読書をする習慣を持っていた。そして彼女こそ森見登美彦作品に憧れて京都の大学生活を決めた人種だった。人は見かけによらぬものである。

ある日、互いに講義を受けるつもりなどさらさらなかったがために四条河原町へと繰り出し、小洒落た喫茶店で取り留めのない話を続けたり、雨上がりの先斗町の石畳を滑ったりしてからはもくもくと立ち込める煙で前が見えない焼鳥屋でひたすらにぼんじりを食べていた。


「ぼんじり、ぼんじり、ぼんじり」
呪文のように店主に伝える彼女は滑稽でしかなかった。
この日学んだのは、京都に黒髪の乙女は居ないが、変な女は居るということである。この日の出来事がきっかけで彼女とは同じ部活に入ることになった。

 

ある機を境にぼくが部活を辞めてからは、彼女とは徐々に疎遠になってしまった。互いに彼氏や彼女を作ったり、就職や離職をしたりと状況がそうさせているのもあったのかもしれないが、大抵の原因はあいつのドタキャンである。
九州に帰る前に一度、あいさつをしておきたかったが、やはり彼女は現れなかった。
けれどもいつかふらりと街中で会うような気がしている。そのときはおともだちパンチをして、偽電気ブランを呑むことでチャラにしようと思う。

 

 

夜は短し歩けよ乙女 (角川文庫)

夜は短し歩けよ乙女 (角川文庫)

 

 

 

青少年のための自殺学入門

エッセイ

体調のバロメーターをどのようにして測るかは各々だと思うが、ぼくの場合は食欲が忽然と消える。脳の電気信号は大火の如く、空腹だと警鐘を鳴らし続けるのだが、悲しいほどに喉を通らない。代わりに雑に酒を呑むようになってしまう。カロリーだけはある。

しかし、悲しいかな、金銭的にゆとりがないので野口二枚のジャックダニエルすら買うのを躊躇してしまう。結果として、発泡酒を流し込み、つまみも炙ったイカではなく、銀色のシートに並んだ錠剤である。子どもの頃であれば、その中は極彩色の着色料で塗りたくられたチョコレートなのだが今は苦い白い薬である。リストカットとは異なる見えない自傷行為をやめられずにいるのである。現実逃避をするのには身体を痛めつけなければならない寸法である。救われないと分かった瞬間、人間は自棄になるのだと常々実感した。周りは見て見ぬ振りをしているのか分かっていないのかはさておき、今しがた、ぼくは生と死のボーダーラインの上にいるのである。

こんな精神的に危ういぼくが飛び降りるのを差し押さえてるのは寺山修司の思想なのだと思う。家族も含め周りの人は夢想家であり、もし死を選んだのであればおよそ体裁ばかりを気にするだろう。悲しんでくれるのは幼馴染みだけだろうか。

彼には以前、彼にこう話したことがある社会的に窮困して自殺をしたのであればそれは社会による他殺ではないかと。全くの受け売りであるが、彼は成る程と素直に納得をしていてくれた。この本で述べられていた何かが足りないために死ぬのは全て他殺という言葉はまさしくそれなのだと思う。

 

ぼくは遅かれ早かれ、最終的には自ら命を絶つことになるだろう。これは実際に関わってきた人々による人と社会が、ゆっくりと、一突きずつ、或いは複数回刺し抜いた大規模なオリエント急行殺人事件である。

死後も彼らにその自覚が生まれることはないだろうし、すぐさま塵芥としてなかったことになってしまうだろう。

 

「じぶんを殺すことは、おおかれすくなかれ、たにんをきずつけたり、ときには殺すことになる。そのため、たにんをまきこまずには自殺もできない時代になってしまったことを、かんがえながら、しみじみとえんぴつをながめている。」

この書籍の後書きにはこう綴られていた。けれども、もうそうした時代は終わってしまったのだろう。

 

 

青少年のための自殺学入門 (河出文庫)

青少年のための自殺学入門 (河出文庫)

 

 

 

キッチン

小説 エッセイ

ぼくは人一倍、食い物に対しての執着が強いと思う。飢えて育った訳ではなく、むしろ食生活は恵まれていた方だろう。そんな遺伝的形質のルーツは奇しくも同じで、この小説において故人でありつつキーパーソンでもある祖母らしい。ぼくの場合は父方の方の家系から来ていると言われた。突然変異でもなんでもなく、産まれる前に二重らせんに刻み込まれていたのだと思うと不思議な気持ちになる。

 

確かに祖母の姿でまず思い起こすのはキッチンに立っていた姿だ。毎日のようにヨガや絵手紙といった教室に通い、庭弄りや洋裁まで行って、ドラマ化された小説は早々に原作を読んでしまうような多趣味な人だが、どこか食べ物に固執しているところがあった。祖母は小さい頃に戦争を経験したからかと冗談めかして言っていた。けれども、あの当時は誰もがそうなのではないだろうか。しかも、祖母の実家に関していえば、当時酒蔵を営んでいたということもあって経済的には比較的恵まれていたらしい。口伝えなので確証はないが、戦後間もなく東京オリンピックが行われるより前に東京で娘に一人暮らしをさせ、且つ洋裁の専門学校へ通わせる程度のゆとりはあったのは事実だろう。食生活も比較的充実しており、酒蔵であることから白米を頬張ることが出来ていたとも、近所の川で鰻を捕まえて食べていたとも言っていた気がする。そうした裕福な家柄の行き着く先が自分でその糊口を凌ぐことすら叶わない精神薄弱な人間であるというのはなかなか、いやずいぶんと申し訳ない。

 

そんな情けないぼくですら美味しいものを食べることは幸福だと思う。そしてもっとも楽しいのは家庭料理だと思う。ちょっと不思議な言い方をしたのは家庭料理は変化し続ける料理だからだ。思いつきで味噌汁の味噌は白味噌から赤味噌になるし、たまごを落としてもいいし、溶いてかきたま汁にしてもいい。味噌汁を一つ取り上げてもそういった思いつきが溢れているし、美味しく出来ると嬉しいし、食べても幸福になれる。キッチンは家の中でもっとも自由な場所なのだと思う。もやもやとしたものを抱えていても料理に集中するといつの間にかリセットすることが出来ていたりもする。問題は我が家のキッチンが狭いことであり、飼い犬がその狭い空間へさらに入ってくる悪循環が生まれていることぐらいだろうか。これは片付けをすれば済む話なのだけれども。家族は捨てられない人ばかりなので自分が家を出るほうが先になるんだろう。弱りきったときにぱらぱらと読んで思ったのは、絶望しきった先で自分が本当に捨てられないものはなんなのだろうかという疑問である。命は投げ捨てる直前にまで辿り着いていたのだから他の何かなのだと思う。

 

あ、ぼくの祖母は元気です。至って。

 

 

キッチン (角川文庫)

キッチン (角川文庫)