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かもめのジョナサン

傍らの何かを通したエッセイを。

かもめのジョナサン

 季節が巡るに従って、読みたくなる本というものがいくつかある。

 たとえば全世界的にUFOの日には空に消えていった少女と再会したいと思うし、それから少し過ぎて梅雨がようやく開けそうかという清々しいとは言い難い夏の日には雑司ヶ谷で起きた事件を振り返りたくなる。しかしながら、ブログのタイトル名にまでした、リチャード・バックが記したかもめのジョナサンを読み返すことはあまりない。複数回買ったにも関わらず、一冊として手元にないからだ。

 ぼくは本を処分しないし、図書館で借りることもあまり好まない。前者は捨てられないのではなく、他に荷物がないからであり、後者に関しては急かされているような気がして、流動食を摂取しているような気持ちになるからだ。

 

 にも関わらず、この本が手元にないのは他人に贈っているからに他ならない。類は友を呼ぶというのはまさしくであり、ぼくの周りには些かズレている人が多い。たとえばぼくの影響を多大に受けた末の弟は、中学生になったばかりの頃にはどっぷりとビートルズに傾倒していた。誤解がないように述べておくと、21世紀の話である。オノ・ヨーコが親戚にいるわけでもない。大学生の頃にはTwitterを切っ掛けに、近所に住む院生と喫茶店で夭折したフリージャズ奏者、阿部薫の話題で盛り上がったこともある。「阿部薫系男子」という誰に通じるのか分からない造語をでっち上げたりもした。

 

 けれども、彼や彼女にはこの本を贈っていない。楔を打ち込まれていないからだ。それどころか院生だった彼女はぼくに飛び方を教えてくれた。彼女はマイノリティであった。けれども、それに誇りを持っていた。そこに起因する言動は些か過激すぎるのではと傍観者のぼくは思うこともあった。けれど、それもまた彼女のポリシーだったのだろうと思う。あの頃のぼくはまだ社会という便宜的な概念をどこかでまだ信用していたから、彼女を諌めるべきなのではないかと思っていた。けど、今となってはその通りでしかないと思う。効率化や正当性を求めるだけで排斥されたからだ。末法の世である。彼女はそれ以上にどうしようもないことで不快な思いをし続けていたのならば、正当な怒りだと思う。

 

 社会はどこまでも冷笑的だ。誰かの歪んだ価値観によってこの国に産まれた邪教でしかない。ジョナサンが言ったようにそんな認知は捨て去るべきだろう。自由を阻害するものは正しさではない。こんな認識すら持たない人には、ぼくはこの本を送らない。単にお金がもったいないし、寓話であるこの話の意図など到底分かるわけがないからだ。では、どういう人に渡したのかというとあまり覚えていないというのが正確なところである。そしてそれでいいと思っている。思想を押し付ける目的でこの本を送っていたとするならば、もはや本質を見失っている。社会を唾棄しているのは、どこまでもぼくの価値観であり、それを無条件に信奉するようなことが起きてしまえば形骸化してしまう。本を贈るのも過剰なぐらいだ。こんな場末のブログのエントリをふらりと見て、ちょっくら口に入れてみるぐらいがちょうどいい塩梅だろう。

 

 そういえば、院生の彼女は阪神沿線で生まれながら、巨人を応援していたのを小さな頃から吹聴していたらしい。こればかりは——あの人が飛んでも逃げられないのではないだろうか。

 

 

かもめのジョナサン: 【完成版】 (新潮文庫)

かもめのジョナサン: 【完成版】 (新潮文庫)

 

 

ロボット・カミイ

 在職中、趣味を尋ねられて読書だと答えると怪訝な顔をされる事が多かった。こうしたことに限らず、彼らの価値観にそぐわない返答をすると途端に不機嫌になるから不思議である。しかしながら稀に同僚、或いは客の中から「子どもに本を読むようになって欲しい」と本人の意思を無視した願望を述べる人もいた。これに対してぼくは「お子さんが関心を持てる、或いは持てそうな本は御自宅にありますか」「お子さんが小さな頃に読み聞かせをしていたことはありますか」などと答えていた。すると、尋ねて来た人は少しばかり考えてから大抵、分からない、覚えていないと答える。


 子どもが書籍に関心を持たないのは、環境が原因である——とまでは言ってしまわないが、まずは一緒に書店や図書館に赴いて、本人が気に入った本を買うなり借りるなりするといいと、ぼくにしては至極真っ当な助言をする。それに頷く人も居るのだが、結構な割合で「どうせ漫画を欲しがる」だとか、しょうもないバイアスを披露するケースが珍しくない。自分が読ませたい本を子どもに読ませるのは強制であり矯正でしかないと講釈を垂れたいが、独身風情がと反感を買うだけなので機を見計らって話題を変えていた。

 

 ぼくの場合は、生まれながらに絵本や児童書が自宅に溢れていた。確かにそれも本が好きになった要因だろう。両親の性格や仕事、今も付き合いがある母の知人がほるぷ出版に勤めている方がいたことが理由だったそうだ。最初の子どもということもあってか、母親はぼくがまだ小さな頃によく絵本の読み聞かせをしてくれたのを覚えている。はらぺこあおむし、いないいないばあ、からすのパンやさん、さんびきのやぎのがらがらどん、ぐりとぐら。今となっては数えてはいないだろうが、きっと何十冊も読んでもらったのだろう。


 四歳になって、入園した幼稚園もまた読み聞かせに注力していたように思う。プロテスタント系の幼稚園だからだろう。幼児にも分かるように、ゆっくりと、繰り返し、平易な言葉で聖書の内容を説いていた。ノアの箱舟のような分かりやすい話だけでなく、善きサマリア人の話をしていたことも記憶しており、このたとえ話の意味もよく覚えている。しかし、どのようにしてこの話を、未就学の子どもに対して、その意味を伝えていたのかが今となっては不思議でしかない。そうしたきっかけがあったからなのか、あの頃に同じ幼稚園へ通っていた、今でも付き合いのある友人とぼくが互いにとってのサマリア人になったというのは面白いと思った。


話を戻そう。この幼稚園はミッション系でありながら、宗教色はそれほど強くなかった。秋に保護者の前で披露するオペレッタもたいてい、聖書とは無縁の作品であったし、普段も通園してから賛美歌を申し訳程度に歌って意味も分からない礼拝をしてからは、ほとんど泥遊びをして過ごしていた。それと、帰り際に必ずと言っていいほど読み聞かせがあった。そこでもまた聖書の教えを説くばかりではなかった。奇矯で素晴らしい幼稚園だと思う。


 ある日、読まれることになったのが、古田足日のロボット・カミイである。その日はいつもよりずいぶん早く読み聞かせが切り上げられてしまって、或いはそう思うほど没入していたのか、無性に続きが読みたいと思ったのを強烈に覚えている。十年待っている京極夏彦の鵺の碑の比ではない。帰宅してそうした気持ちを母親に話すと、その日かその次の日か、覚えていないがすぐに買ってきてくれた。読み聞かせは幼稚園でしてもらえるのだし、と自分で活字を追うことにした。それまでも自宅にある絵本は自分で読むことがあったが、この本は百ページ近くもあり、それなりに分厚い。けれども、そういったことは気にも止めずにあっという間に読み終えてしまった。
この読書体験がまさしくパラダイムシフトだったのだろう。書籍は読んでもらうものから読むものへと認知が変わり、以降、中学生まで貪るように本を読むきっかけである。ホームズも、クリスティも、モモも、後は有毒生物の知識もその間に摂取した。

 

 両親に感謝したいのは読書をする習慣を形成したことではなく、自身で良いものと悪いものを見分けられ、納得出来る感性を養ってくれたことである。
 確かに読書はそれ自体が楽しいし、本には素晴らしいものが多くあると思う。けれどもこれはぼくが小馬鹿にしたバイアスと本質的な部分は変わらない。本当に重要なのは形而下にあるものであり、媒体というのは入れ物に過ぎないということは覚えておくべきだろう。
 マンガだから、ゲームだからと外側だけ見て決めつけてしまうことは、即ちロボット・カミィをダンボールと言ってしまうようなものなのだから。

 

ロボット・カミイ (福音館創作童話シリーズ)

ロボット・カミイ (福音館創作童話シリーズ)

 

ボトルネック

 ぼくは「ボトルネック」という言い回しをよく用いる。社会問題を論じるときや、他人を皮肉るときに便利な言葉だからだ。周りにシステム設計や情報技術、或いはミリタリーに精通している人が片手で数えれるほどしかおらず、この言葉の意味を分かっていないと把握して使っている。我ながら性格が悪いと自嘲するが、こうしてシニカルに育った原因の多くは外的要因であるとしか言いようがないので自己責任ではないと開き直ることにした。
 最初にこの言葉を知ったのは、そうした言い回しと全く無関係のライ・クーダーが小指に嵌めて奏でるギターの方であった。正確にはレモンハートというバーを舞台にしたオムニバス形式の漫画のある話で、アーリータイムズボトルネックを使用してギターを弾くというエピソードを読んだ。この話の元ネタとなったアーリータイムズのコマーシャルが放映されていたのは、ぼくが産まれる前なので知る由もないのだが、妙にこの話は頭に残っている。成人した後、バーに行った際に気取ってアーリータイムズを注文したこともある。十年以上も頭に残っていたその酒の味はというと、特別何の感情も湧かなかった。バーボンよりもスコッチの方が遥かに好みなのだと気づいたのはそれから数ヶ月後にマッカランを飲んで芳醇なシェリーの香りに感動したときだった。
ギムレットには早過ぎる」というのはレイモンド・チャンドラーの「長いお別れ」での有名な一節だが、ぼくにとってはバーボンが早過ぎたのかも知れない。

 しかしながら、こんなに間抜けで、ある意味可愛らしい行為をすることは今後ないだろうと思う。生きるということがまた「ボトルネック」であるのかも知れないと思い知らさらされ続けているからだ。
 瓶の首は細くなっていて、流れを妨げる。そうした「妨げ」がボトルネックである。生きることは何かを知ることであり、同時に失うことでもある。知ってしまったならば苦しまなければならない。それを露悪的に読者に叩きつけるのが本作だった。北陸という舞台も相まってか松本清張が描くような陰鬱な情景を思い起こさせて息が詰まった。作者の名前を見て連想したミステリーではなく、ホラーを読んだ後の感覚だ。

 なので、早めに冬季限定の甘味でも食べたいと思う。

 

 

ボトルネック (新潮文庫)

ボトルネック (新潮文庫)