読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

かもめのジョナサン

傍らの何かを通したエッセイを。

キッチン

ぼくは人一倍、食い物に対しての執着が強いと思う。飢えて育った訳ではなく、むしろ食生活は恵まれていた方だろう。そんな遺伝的形質のルーツは奇しくも同じで、この小説において故人でありつつキーパーソンでもある祖母らしい。ぼくの場合は父方の方の家系から来ていると言われた。突然変異でもなんでもなく、産まれる前に二重らせんに刻み込まれていたのだと思うと不思議な気持ちになる。

 

確かに祖母の姿でまず思い起こすのはキッチンに立っていた姿だ。毎日のようにヨガや絵手紙といった教室に通い、庭弄りや洋裁まで行って、ドラマ化された小説は早々に原作を読んでしまうような多趣味な人だが、どこか食べ物に固執しているところがあった。祖母は小さい頃に戦争を経験したからかと冗談めかして言っていた。けれども、あの当時は誰もがそうなのではないだろうか。しかも、祖母の実家に関していえば、当時酒蔵を営んでいたということもあって経済的には比較的恵まれていたらしい。口伝えなので確証はないが、戦後間もなく東京オリンピックが行われるより前に東京で娘に一人暮らしをさせ、且つ洋裁の専門学校へ通わせる程度のゆとりはあったのは事実だろう。食生活も比較的充実しており、酒蔵であることから白米を頬張ることが出来ていたとも、近所の川で鰻を捕まえて食べていたとも言っていた気がする。そうした裕福な家柄の行き着く先が自分でその糊口を凌ぐことすら叶わない精神薄弱な人間であるというのはなかなか、いやずいぶんと申し訳ない。

 

そんな情けないぼくですら美味しいものを食べることは幸福だと思う。そしてもっとも楽しいのは家庭料理だと思う。ちょっと不思議な言い方をしたのは家庭料理は変化し続ける料理だからだ。思いつきで味噌汁の味噌は白味噌から赤味噌になるし、たまごを落としてもいいし、溶いてかきたま汁にしてもいい。味噌汁を一つ取り上げてもそういった思いつきが溢れているし、美味しく出来ると嬉しいし、食べても幸福になれる。キッチンは家の中でもっとも自由な場所なのだと思う。もやもやとしたものを抱えていても料理に集中するといつの間にかリセットすることが出来ていたりもする。問題は我が家のキッチンが狭いことであり、飼い犬がその狭い空間へさらに入ってくる悪循環が生まれていることぐらいだろうか。これは片付けをすれば済む話なのだけれども。家族は捨てられない人ばかりなので自分が家を出るほうが先になるんだろう。弱りきったときにぱらぱらと読んで思ったのは、絶望しきった先で自分が本当に捨てられないものはなんなのだろうかという疑問である。命は投げ捨てる直前にまで辿り着いていたのだから他の何かなのだと思う。

 

あ、ぼくの祖母は元気です。至って。

 

 

キッチン (角川文庫)

キッチン (角川文庫)

 

 

 

世界は密室でできている

息苦しくなるようなタイトルだと思うが、解き放たれたようなカタルシスが肝の小説だ。
デビュー作である煙と土と食い物で舞城王太郎に抱いた印象は旋風のようにひょうひょうとした文体でありながら、堰を切った堤からの鉄砲水のような質量もあるというのがひとつ。そして、もうひとつこの外連味の強い文体は決定的に好き嫌いが別れるだろうと思った。杞憂というか、それをねじ伏せる筆力があったからなのかメフィスト賞という文壇の問題児の掃き溜めから、閃光のような早さで三島由紀夫賞を受賞し、芥川賞の候補となり、時の東京都知事を激怒させていたのは伊集院光が提唱した正確な意味での中二病だったぼくとしては、不貞腐れた老人を見てげらげら笑っていた。けれども石原良純父親のように自己の感性に自信を持って(そもそもベストセラー作家なのだから当然だが)おくべきだと思うし、頭部に向けてビーンボールを投げ込むような舞城王太郎の文体も、焚きつけた選考委員も、噛み合った一つの滑稽な演劇のようで素晴らしいと思ったからだ。
今となっては出版不況も相まってかテレビ報道を目論んでのマーケティングのツールと成り下がってしまってはいる。けれども、ぼくとしては文学に限った話ではなく、芸術というものは凶暴性を何処かに孕んでいる方が蠱惑的に、惹きつけるものがあると思う。それこそ芥川龍之介地獄変のように。

槍玉にあげるように批判的に書いてしまったが又吉直樹さん自体は、ブラウン管の向こう側の人間という線引きをした上で好きな人物である。小説はさておき、芸人という立場と書評を織り交ぜたエッセイは非常にユーモラスであり、その続きを読みたいと素直に思ったし、京極夏彦の書斎に入ったときの表情を見てこの人は心底本が好きなのだろうなと羨ましく思う反面、微笑ましくも思えた。

こうした一悶着があった芥川賞に対し、三島由紀夫賞の選評に於いては一人を除き、舞城王太郎でほぼほぼ当確だったと聞く。実際は選評委員が他の作品がイマイチだったからと揃いも揃って並べていたので、三島由紀夫舞城王太郎の同一性には言及されておらず、残念に思った。凶暴性に言及されていなかったからである。確かに阿修羅ガールに於いては小汚いとはいえど女性という視点を利用してそうした牙を削ぎ落としているような印象も否めなかった。けれども、本質は三島由紀夫が内に抱え込んでいた暴力性と類似していると思う。そして、それが一番美しい形で発露して、昇華したのが本作であるように思う。

三島由紀夫が割腹自殺をしたなどと今さら説明するのも馬鹿馬鹿しい話であるが、彼が死を選んだのはクーデターを目論んでいたなどという夢想的な理由ではなく、ごく個人的な精神の病だったのではないかと思った。ぼくがつい最近フラッシュバックを境に希死念慮に悩まされていると、脳髄を掻きむしっているのは抑えられない暴力性だった。口は悪いが、物に当たる事すら滅多に無く、人に手を出したのも十年以上前だと思う。それが一転して、我ながら情けないことに周囲のものに当たり散らしてしまっていた。カラーボックスを蹴り壊しているとその棚は舞城王太郎の小説を詰めているものだった。当然ながら重心を失った木製の棚は原型を留めず、土砂崩れのように本が落ちてきた。錯乱状態だったのに不思議と本には当たらず、壁へ投げる代わりにこの文庫を手に取って冒頭を読んだ。

この作品は親友の姉が死んだ理由を探すものだったなと思い出すと、気味が悪いほど、すっと落ち着いた。
というのも、この小説の探偵役のルンババのように弟が賢しくもなければ、両親はこれ以上に塞ぎ込むだろうし、それぞれの道を歩いている友人には直ぐに忘れ去られてしまうだろうと途端に虚しくなったからである。走馬灯ではなく、これから起きるであろうことが、時折見えてしまう現象はなんなのだろうか。芥川龍之介が透明な歯車に悩まされて死を選んだのとは対照的に、自分はそれが見えなくなってから死のうと思った。道を歩けば前の職場の人間と出くわすこの世は密室のようであると思ったけれども、その中で殺されるのはもう少し先でいいんじゃないかと。

こうしてわざわざ少しばかり死にかけていたのを立ち直らせてもらったと言わんばかりに書いていったが、舞城王太郎は嫌いな小説家である。

作品には全て目を通しているし、新刊も欠かさず買うが嫌いである。その理由は、上遠野氏以外が奇を衒いすぎてコケたあの一連のノベライズである。今後、オリジナルだけを書いてくれるのならば、死ぬ前にはなかったことにしようと思う。

 

 

世界は密室でできている。 (講談社文庫)

世界は密室でできている。 (講談社文庫)

 

 

 

重力ピエロ

掃除の一環として、溜まっていた書類を焼いた。常識的なコンプライアンス上では外部に持ち出すなど以ての外というべきような事が記された書類なのだが、当たり前のように手元にあった。デリケートな内容であり、裁断するだけでは不十分だと思い、庭にコンクリートのブロックと煉瓦で簡易的な竃を作って焼いた。真っ白な紙を食むようにして立ち上がる橙色を見つめていると、不思議と穏やかな気持ちになった。

 

改めて言うまでもないが火というものは神聖視されている。例えば、青森のあのねぶた祭りも元を辿れば火祭りらしい。年がら年中阿呆のように祭りが行われている京都に於いては夏の五山送り火が最も有名だろうか。しかしながらこの地では本来、秋から冬が火祭りの季節であり、夏は水への信仰が中心とされている。火伏せの愛宕祭りも元を辿れば冬に行われていた火祭りである。他にはあまり耳馴染みがないかもしれないが、木枯らしが吹き、虎落笛がなる頃には市内の随所で「御火焚」や「大根焚」と呼ばれる一風変わった火祭りが行われる。後者の「大根焚」はその名の通り、実際に炊いた大根を食べさせてくれる。話題にもなると思うので京都に訪れる時期が合い、時間が許せば是非足を運んでみることをお勧めする。

 

近畿地方から遠く離れ、海外に目を向けるとスペインのバレンシアの街で行われるサンホセのラス・ファジャスは聞いたことがある人も多いだろう。確か、日本テレビのバラエティ番組でも取り上げられていたはずだ。この祭りでは膨大な数の「ファヤ」と呼ばれる張り子人形で街中が埋め尽くされる。参加者は気に入ったファヤを選んで投票を行い、それを勝ち抜いた人形以外はすべからく燃やすのだとか。魔女裁判さながらだと思った記憶がある。

こうして祭りとの関係性が強いということはイコール、宗教にも深く根ざしている。中東で細々と信仰されているゾロアスター教が別名、拝火教とも呼ばれている事は有名だろう。また、キリスト教に於いても聖人ヨハネの前夜祭が火祭りの形質を持っており、これはイギリスやイタリア、ブラジルなどで行われるとも 聞く。
また、この国に戻ると比叡山延暦寺で不滅の法灯と呼ばれる最澄が灯した明かりが今も本尊薬師如来像の前で仄かに輝いている。日本のランドマークと言える富士山もまた火への信仰と深い繋がりがある。

富士山には浅間神社があり、その正式名称を富士山本宮浅間大社と呼ぶ。全国の浅間神社の総本山であり、富士山の南麓と頂上を神体山としている。徳川家康が造営したこの社の主祭神は木花之佐久夜毘売命である。
祭神コノハナサクヤには、あまりにも身籠るのが早すぎた事を夫であるニニギノミコトに疑われ、憤慨したコノハナサクヤは身の潔白を示す為、産屋に火を放ち、三人の子を出産したという説話がある。そうした向きからも火の神と捉えられる事が多い。実際に信仰体系のみならず、娯楽作品である女神転生シリーズにおいてもコノハナサクヤはそのように扱われている。しかしながら、この社に於いては水の神として、富士山の噴火を鎮める為に祀られたとされている。

売り言葉に買い言葉と言わんばかりに火中で出産というのは、これを知った大学にいた頃には神話でお馴染みの突飛な行動のように思えた。これに限らず、うんこを投擲したスサノオといい古事記の内容はなかなかに酷いものも多い。
しかし、ぼくが火にくべたのも周りから見れば同様な突飛な行動のように映っただろう。けれども燃やしていた書類の中には、二枚舌の持ち出し禁止だったはずの書類だけでなく、実際には持ち帰り残業をさせられつつもそれなりに時間を費やして作った物もあった。こうして燃やしたのも、機密保持という観点が一番なのは勿論だが、裏っ側にあったのが自身の徒労への供養だったのか、或いは人間の屑への当てつけだったのか実際の所はよく分からないが、何らかの意図はあったと思う。

伊坂幸太郎の重力ピエロではここまでぼくがまとまりなく、だらだらと書いた文章と同様に、コノハナサクヤの逸話を引用し、こう綴っていた記憶がある。
「火には浄化作用がある」と。
この一文は改稿によって削られてしまったとも聞くし、ドラマだか映画だけの台詞だけだったのか、実のところは曖昧である。
しかし、今のぼくにとってはこの曖昧な言葉がまさしく真理を突いていた。未だに消化しきれていないケガレを浄化したかったのだろうと、灰を崩しながら思った。

 

 

重力ピエロ (新潮文庫)

重力ピエロ (新潮文庫)