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かもめのジョナサン

傍らの何かを通したエッセイを。

世界は密室でできている

息苦しくなるようなタイトルだと思うが、解き放たれたようなカタルシスが肝の小説だ。
デビュー作である煙と土と食い物で舞城王太郎に抱いた印象は旋風のようにひょうひょうとした文体でありながら、堰を切った堤からの鉄砲水のような質量もあるというのがひとつ。そして、もうひとつこの外連味の強い文体は決定的に好き嫌いが別れるだろうと思った。杞憂というか、それをねじ伏せる筆力があったからなのかメフィスト賞という文壇の問題児の掃き溜めから、閃光のような早さで三島由紀夫賞を受賞し、芥川賞の候補となり、時の東京都知事を激怒させていたのは伊集院光が提唱した正確な意味での中二病だったぼくとしては、不貞腐れた老人を見てげらげら笑っていた。けれども石原良純父親のように自己の感性に自信を持って(そもそもベストセラー作家なのだから当然だが)おくべきだと思うし、頭部に向けてビーンボールを投げ込むような舞城王太郎の文体も、焚きつけた選考委員も、噛み合った一つの滑稽な演劇のようで素晴らしいと思ったからだ。
今となっては出版不況も相まってかテレビ報道を目論んでのマーケティングのツールと成り下がってしまってはいる。けれども、ぼくとしては文学に限った話ではなく、芸術というものは凶暴性を何処かに孕んでいる方が蠱惑的に、惹きつけるものがあると思う。それこそ芥川龍之介地獄変のように。

槍玉にあげるように批判的に書いてしまったが又吉直樹さん自体は、ブラウン管の向こう側の人間という線引きをした上で好きな人物である。小説はさておき、芸人という立場と書評を織り交ぜたエッセイは非常にユーモラスであり、その続きを読みたいと素直に思ったし、京極夏彦の書斎に入ったときの表情を見てこの人は心底本が好きなのだろうなと羨ましく思う反面、微笑ましくも思えた。

こうした一悶着があった芥川賞に対し、三島由紀夫賞の選評に於いては一人を除き、舞城王太郎でほぼほぼ当確だったと聞く。実際は選評委員が他の作品がイマイチだったからと揃いも揃って並べていたので、三島由紀夫舞城王太郎の同一性には言及されておらず、残念に思った。凶暴性に言及されていなかったからである。確かに阿修羅ガールに於いては小汚いとはいえど女性という視点を利用してそうした牙を削ぎ落としているような印象も否めなかった。けれども、本質は三島由紀夫が内に抱え込んでいた暴力性と類似していると思う。そして、それが一番美しい形で発露して、昇華したのが本作であるように思う。

三島由紀夫が割腹自殺をしたなどと今さら説明するのも馬鹿馬鹿しい話であるが、彼が死を選んだのはクーデターを目論んでいたなどという夢想的な理由ではなく、ごく個人的な精神の病だったのではないかと思った。ぼくがつい最近フラッシュバックを境に希死念慮に悩まされていると、脳髄を掻きむしっているのは抑えられない暴力性だった。口は悪いが、物に当たる事すら滅多に無く、人に手を出したのも十年以上前だと思う。それが一転して、我ながら情けないことに周囲のものに当たり散らしてしまっていた。カラーボックスを蹴り壊しているとその棚は舞城王太郎の小説を詰めているものだった。当然ながら重心を失った木製の棚は原型を留めず、土砂崩れのように本が落ちてきた。錯乱状態だったのに不思議と本には当たらず、壁へ投げる代わりにこの文庫を手に取って冒頭を読んだ。

この作品は親友の姉が死んだ理由を探すものだったなと思い出すと、気味が悪いほど、すっと落ち着いた。
というのも、この小説の探偵役のルンババのように弟が賢しくもなければ、両親はこれ以上に塞ぎ込むだろうし、それぞれの道を歩いている友人には直ぐに忘れ去られてしまうだろうと途端に虚しくなったからである。走馬灯ではなく、これから起きるであろうことが、時折見えてしまう現象はなんなのだろうか。芥川龍之介が透明な歯車に悩まされて死を選んだのとは対照的に、自分はそれが見えなくなってから死のうと思った。道を歩けば前の職場の人間と出くわすこの世は密室のようであると思ったけれども、その中で殺されるのはもう少し先でいいんじゃないかと。

こうしてわざわざ少しばかり死にかけていたのを立ち直らせてもらったと言わんばかりに書いていったが、舞城王太郎は嫌いな小説家である。

作品には全て目を通しているし、新刊も欠かさず買うが嫌いである。その理由は、上遠野氏以外が奇を衒いすぎてコケたあの一連のノベライズである。今後、オリジナルだけを書いてくれるのならば、死ぬ前にはなかったことにしようと思う。

 

 

世界は密室でできている。 (講談社文庫)

世界は密室でできている。 (講談社文庫)