かもめのジョナサン

傍らの何かを通したエッセイを。

姑獲鳥の夏

どこまでもだらだらといい加減な調子で綴られているこのブログを——というのはエントリタイトルの小説の書き出しの文字りである。

人生で読んだ中で最も面白かった小説はと問われると幾つか候補が浮かび上がり、悩ましいままジョイスの「ユリシーズ」やユイスマンスの「さかしま」を挙げて煙に巻くと思うが、人生に於いて影響を受けた小説はと問われると「姑獲鳥の夏」を真っ先に挙げると思う。最大の仕掛けの判明した瞬間には、それまでの覚めた感覚が反転し、ひたすら賞賛した。冒頭二段組数十ページに渡る膨大な薀蓄で脱落寸前にまで陥ったのが懐かしく思える、ちょうど梅雨が開けようかという時期だったと思う。奇しくも作中の時間と合致していた。私が民俗学を専攻しようと志した切っ掛けである。

因みに、大学に入学してから卒業するまでの間に鵺の碑は出なかった。


膨大な薀蓄を読み飛ばしちゃったけど、美味しいところは食べたいと似非美食家がこのブログのこのエントリに辿り着くかは不明だが、これで終わるのは薄味にも程があるのでちょっとした小噺として薀蓄を一部噛み砕こうと思う。

本作を読み解く最大のキーワードは「認知」である。

そもそも「認知」とは何か。人間が外界を知覚し、何であるかを判断するという過程のことであるって当たり前じゃないかと思われるが、判断と知覚の間には幾つものフィルターがある。

偏見、経験、知識などなど。

一つ解りやすい例を挙げよう。

 

「世界の何処でも虹の色は七色」これは文化的観点から捉えるならば誤りである。

 

赤、橙、黄、青、緑、水色、紫というのが我々の思う虹の色だが、この「認知」が成立したのは実は極めて近年だ。ニュートンが柑橘色である橙色と、インディゴ、すなわち紫、或いは藍色という概念を従来のイギリス社会で「認知」されていた五色に付け加えたのだ。厳密に言ってしまえば虹の色の数は無限であり、ニュートンもそれを把握していたのだが、何故このようにしてしまったかというのは「七」という数字に意味があったからである。つまり、我々が思う虹の色は文化的な観点から決められた「認知」が定着しただけなのだ。実際に、別の文化圏では虹の色の見え方は違う。

 

と言った風に、今、見ているものが誰しも同じように見えているとは限らないのである。人は見たいようにしか物事を見る事が出来ないのだから。至って当たり前のように書いたこの文章も、もしかすると他人には読むことが出来いとは言い切れない。斯くも不思議なことも——いや、この世には不思議なことなど何もない……はず。

 

 

文庫版 姑獲鳥の夏 (講談社文庫)

文庫版 姑獲鳥の夏 (講談社文庫)

 
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